論評
転形期の日本(その十九)
三上 治
「近代の超克」という思想は太平洋戦争の最中に生まれたものであり、西欧近代思想への対立意識の強い時代に生まれたものである。従ってナショナリズムの色彩の色濃いものである。現在の超克といってもその発生期のことは尾を引いてもいるわけでナショナリズムとの関係を語っておかなければならない。今、アメリカとの関係の見直しの意識がナショナリズムを呼び起こすこと、また自然ということが強調されるとき伝統的な日本思想が思い起こされることもあるからこのことは必要なことである。
近代西欧思想が世界思想としてあることへの疑念から「近代の超克」という思想は生まれた。近代西欧思想が相対化されることは進んでいるが、それが世界思想として流布されている事態もあるわけだから、現在の超克というのもその関係を持っている。近代西欧思想が政治支配をともなって出てくる以上、それに対抗する部分がナショナリズムをもって現れる必然はある。現在の世界の共同性が国家を最高のものとしていてあり、社会の共同利害が国家や民族として現れるほかないということでもある。しかし、近代西欧思想は制度の枠組みとして国家を最高の共同性としているわけでから、国家や民族を超えなければ超克したことにはならない。その意味でナショナリズムは過渡的なものであり、ナシュナルにしてインターナショナルなものでなければならないということである。このインターナショナリズムの根拠は労働者の世界性にあり、それはまた経済過程の世界性に根拠をもっということだった。これは社会の普遍性が賃労働と資本の関係にあるということであり、社会の近代制度に根拠づけられる。
人間と自然との対象的関係からみれば狭い概念であり、相対化されてしかるべき段階にある。<歴史と社会>を賃労働と資本の関係に還元し、そこから<民族と国家>を超えるという思想は相対化されるほかならない。これはロシア社会主義という幻想とともに潰えた。近代西欧思想を世界思想として、しかも国家を最高の共同性として主張してくる部分に対抗する部分が国家や民族をもって現れることは過渡的には存在する。それが現在の世界の対抗関係である。しかし、僕らが「現在の超克」と言う時に時に<民族や国家>は、そしてナショナリズムを超える対象である。国家やナショナリズムが前面化する風潮のある時代でもそれが超えられる対象であることは明瞭であってそれに組みすることはない。アジアとか、日本列島の住民の文化と言っても人間の社会的存在の普遍性というところで見直しているわけでナショナリストの視点ではない。
